5.その昔 …

 ここは彼のこれから暮らしていく世界である。
 クリュンヴァント=オソ=メグはあたりを見回すとひとりごとを言った。本当に満足できる場所だわい、と。それは静かな惑星で土着の知性体もなく、隠遁生活には十分な場所があった。
 水利権の専門家は宇宙船のタラップを降りて行った。(他の16人はとうに先を争って周囲に散ってしまっていた。)そして薄い空気を吸い込んだ。
 それが原因でもし慣れない大気に体が損なわれてしまったら、オソはためらう必要はない。さっさとその体を捨ててしまうだろう。その死んだ殻はすぐに分解して風に吹き飛ばされてしまう……哲学的になど一度として考えられたことのない状態である。宇宙船は水の豊富な地帯に着地しており、図らずもオソの中で年季の入った水利権責任者が目をさました。水は7つの生命の霊薬のひとつであるとされている。オソはその自然のぜいたくな豊かさに目をみはる思いだった。もっとも彼は知っていた。他にもっともっと豊かな水の見出だせる世界があること、しばしば大洋の存在することも。
 オソは大きな河の色や流れを観察し、岸やそこに育つ植物を研究した。ここでは水の使用権に関して決定を下す必要のないのが嬉しかった。なぜなら、水の道や粘度に変更を加えるとき、それはいつも惑星の生態系への手痛い干渉となるからである。操作の不手際が惑星上の生命全体を死に追いやってしまうことも十分有り得るのだ。
 ロボットが一台、タラップを降りてきてオソの夢想が中断した。
 「上陸は終了です。」その自動機械は説明した。「行動体のある洞窟の位置は確認しました。通路はよく隠蔽されています。」
 オソは他の幾多の世界で幾多のロボットが今同じ言葉を発していることを思い、落ち着いてそれに耐えた。
 彼には仲間の多幸症が不思議だった。そこらじゅうを走り回ったり、子供のように物を見つめたりといった光景がいたる所で見受けられたのだ。きっと彼らはもう合体場所の物色で忙しいことだろう。とりあえずそれぞれ自分たちの行動体に移って。
 「他への報告がありますので。」ロボットはそう言うと滑って行ってしまった。
 オソはタラップのそばに場所を捜すと、そこへ腰を下ろした。煩わしいものが回りからいなくなって彼は嬉しかった。200歩ほど離れたところに洞窟網への道がある。行動体がそこの部屋に隠されている。
 この世界に危険は全くなく、安全措置も不必要だ。おまけに球状星団内には大きな文明は存在しない。だれがこの隠れ家を見つけ出すと言うのだ。
 今ごろケルク階級の人々も報告を受けたことだろう。
 しばらくしてロボットが戻ってきた。
 それはオソに何か言おうとするように一瞬停止したが、考えを変えたのか、ギャングウェイを上へ吸い込まれるように飛んでいってしまった。
 オソは船のほうを見やった。
 船の最後の橋が撤去され、誰も何もしていなかった。助けを求めて水利権責任者はあたりを見回した。船を引き止めようと他の16人の誰かが駆けつけてくれないものかと。しかし誰も注意を向けようとしなかった。
 衝動にかられてオソは飛び起きると、船に向かって狂ったように駆け出した。しかし彼にはもう追いつけなかった。船は突風に捕まった羽根のように、空へ舞い上がっていった。
 彼はそこに立ちすくんで、もやがかった赤い空を見つめていた。船はみるまに黄色い炎の尾を引いた黒い染みになっていった。やがて、とり残されたという恐怖感が彼の心に広がっていった。
 ひどいことに、彼の理解者は一人もいない…
 他の者たちはみな計画を実行に移すのに熱中している。彼らはそれを大いなる前進と信じ、皆が襲われた疲労からの回復となるだろうと期待しているから。
 やがて船は見えなくなった。空には赤みがかったスモッグ以外何もなくなってしまった。オソはがっくりとうなだれた。彼はしばらくあてどもなくあちこちとさまよったあげく、自分のグループの2人に出会った。どうやら鬱蒼と茂った藪の中の白い岩にどちらが合体するかでもめているようだった。オソに気付いて二人は言い争いを止めた。
 二人のうち、バルナテル=トロ=デフトが言った。「おたくはもう決めたんだろ、なあオソ?」
 思わずオソはぐるりと一回転し、水の近くのクリスタル構造物を指して言った。「まあな。」
 「よかった」トロは言った。「俺が最初にこの岩を見つけた。だからこれは俺がもらうって言ってるんだ。」
 「ま、良かろう」もう一人が譲歩した。「争うのは止めておくか。どのみち選び終えたらまずいったん行動体へ乗り移らなきゃならんからな。」
 オソはほとんど聞いていなかった。彼は大きなクリスタルのほうを見、陰鬱な思いに心を痛めていた。
 「船が行ってしまった。」悲しげにオソは言った。「またいつかは戻ってくるのだろうか。」
 「そりゃ、俺たちが望めば戻ってくるんだろうさ。」トロが言った。
 トロと白い岩のことで争っていたモルクダル=ラガ=ツィウは、声に賛同しかねるというトーンをこめて言った。「あんたは最後になって何度も計画に否定的な発言をしていたな、オソよ。」
 「悪かった。」オソは言った。「君たちの楽しみを邪魔するつもりはないのだが。」
 言った瞬間、彼は自分の言葉を悔やんだ。彼の言葉は相手の2人を刺激しただけだった。彼らの立場にしてみればそれは楽しみどころか、れっきとした哲学的教義だったのである。
 「私はもう行かなければ。」彼は慌てて言った。「洞窟網の入り口でみなと会えるだろうから。」
 彼は大急ぎで立ち去った。おかげで彼は再び自分の体が動作を始めているのに気づいた。今まで一度も深く考えたことはなかったが、これは今や彼にとって最も貴重な財産だった。自分の人生で得てきた知識全てより大切とも言えた。
 彼は水の流れに沿って進み、洞窟の入り口にたどりついた。11人の仲間がもう集まっていた。選択を終えた彼らは、惑星表面下の基地に早く入って自分たちの行動体を受け取ろうと待っていた。その行動体から彼らは自分の選んだ最初の物体に乗り移る。
 クリュンヴァント=オソ=メグは口をきくまいと固く決心していた。続いてグループの残り5人が到着し、皆揃ったところで一行は下へと向かった。洞窟基地の中はほんの少し、オソに気持ち良かった。少なくとも施設は満足できるものだった。
 このグループの責任者、カラペデル=ノロ=ゴルクが大洞窟の中に手持ち無沙汰で立っていた。ノロが勿体ぶって出てくるのが好きな人間ではないのでオソは安心した。
 「さて、揃いましたな」彼は口を開いた。「ただちに始めてもよろしいが」
 さあ、ついに。オソはワクワクしながら考えた。誰か、ためらったり逆らったりしないだろうか。
 いま決定的な一歩が、後戻りのできない一歩が間近に迫っている。
 しかしノロ以外は誰も何も言わなかった。
 「どなたか、何か質問がありますかな。」
 オソは、全員が彼のことをトラブルメーカーと知っていて、じっと見つめているような気がした。
 「どうするんです」彼はボソボソと反抗的な態度で言った。「私達の一人でも機能しなかった場合は。」
 ノロは辛抱強く笑顔を作った。
 「行動体は受入態勢が整っておる。誰だって移送フィールドを張れるし、それを使ってのり移ることだってできるじゃろ。」
 他の仲間には乗り移らせておいて自分は乗り移らずにおこうか、などという馬鹿げた考えがオソの頭に膨らんできた。もちろん、みなが行動体に移って彼がここにひとり残っているのを見た瞬間、他の者もその事に気づくだろうが。
 その時、モルグダル=ナガ=ツィウがバタッと横に倒れるのを彼は見た。
 その体は洞窟の地面に死体となって横たわっていた。
 オソは息を詰まらせたような声を発した。
 始まったのだ。

 クリュンヴァント=オソ=メグは数多くの偉大な文明の歴史を知っていた。重要なものも、そうでないものも。同時に無数の小種族の悲運に共感を覚えてもいた。コスモクラートが彼の種族にした指示がそういった経験に結びつかないとは限らなかったから。
 クリュンヴァント=オソ=メグは自分の種族が『戒律』の定めた秩序に従っているうちは活動的だったことを知っていた。誰も『戒律』が何を意味するのかは知らなかった。本当のところコスモクラートたちも知らないのだ。ただ確からしいのは、それはこの宇宙の全存在の生存の可能性と緊密な関係を有するということだ。
 誇らしくも幸運なことに、オソとその仲間たちはコスモクラートのために働いてきた。長い間、もうオソがこの宇宙に生を受けるはるか前から、彼以前のいくつもの世代がコスモクラートの指示を実行に移す仕事に関わってきたのである。
 しかしそれが原因でオソの種族はあの疲労に冒されてしまった。それが結局この球状星団への撤退につながった。疲労に伴ってオソの種族の個体数の減少も発生し、コスモクラートへの十分な助力のできなくなる時期も近づいた。
 高所より全てを見守る者たち、コスモクラートはこうした展開を予見し、相応の処置をとった。深淵の騎士をメンバーとする監視騎士団が設立されたのである。
 深淵の騎士たちがいままでオソの種族の担っていた仕事を引き継ぐだろう。監視騎士団のメンバーなら効率よくこなせるだろうとオソは信じていた。なぜなら騎士団は様々な種族から選び抜かれた者たちなのだから。
 遠い将来には、人はもう深淵の騎士のことは語り合っても、それ以前にコスモクラートの求める秩序の維持のために戦った者たちがいたことを忘れてしまうかもしれない。
 おそらく、とオソは思った。他の者が自分にとって代わるのを経験せねばならなかったことが、彼の種族にとってとどめの一撃となったのだろう。
 オソはモルグダル=ラガ=ツィウが倒れたのを目の当たりにしたせいか、その死体のありさまに深い心痛を覚えていた。それはまるで彼の種族全体が無限の深さの奈落へ落ちていったかのようだった。これでも責任者に言わせれば、深淵への落下でなく前進の一歩の準備なのだろう。
 しかしオソは激しい恐怖を感じていた。この感覚は未だかつて経験したことのないものだった。その激しさは文字通り彼をその場に釘付けにし、押し殺した声以外に彼は発することができなかった。
 いま彼は理解した。何が彼をくじけさせているのかを。
 後戻り不可能、という事実なのだ。
 彼らは自分たちがいかに絶望的になっているかを認めず、ただひとつの考えに身を委ねてしまった。それはとてつもない、そして誰もしたことのない方法で行う逃避だった。それはひとつの問題の解決ではある。しかし種族全体の滅亡よりは些細な問題だ。
 「いけない」オソは半分麻痺にかかったように切れ切れに声を発した。「いけない、やめろ。」
 しかし彼らは次々に倒れていった。彼らの力強い体、巨大なあれほどエレガントに動く体が、チェッカー模様の堅い合成物質の床に激しくたたきつけられ、二度と動かなくなった。
 彼らのいるこの洞窟は、オソにクラートの彼の種族の大居住地を少し思い起こさせたが、それは事態を悪化させただけだった。
 オソは16の死体の間を、絶望と恐怖に半狂乱になってふらふらとよろめき歩いた。彼はモルグダル=ラガ=ツィウの上に覆いかぶさり、揺った。
 「目を覚ませ!」彼は叫んだ。「戻ってきてくれ!」
 しかし相手は動かなかった。押し潰されたような静寂が中央洞窟ホールを支配した。
 ところがそこへギシギシ軋むような声が話しかけてきた。「おまえ、どうかしたのか、オソ?」
 水利権責任者は驚いて振り向いた。目を見開いた。驚愕が彼を圧倒した。
 彼の目の前に16の行動体が立っていた。ちょうど自分たちの坑から出てきたばかりに違いない。皆同じようにこちらを見つめていた。
 オソは後退りした。
 「おれがラガだよ。」つい先程声を出したものが言った。「あんたにトラブルが発生したように見えたもんだから。助けになれるかな。」
 「私にかまわないでくれ!」オソは金切り声を上げた。彼は焦ってあたりを見回した。彼の視線は坑の部屋で止まった。その中のひとつに、まだ薄い灰色をした甲殼を背中に持つ体が横たわっていた。彼用のアンドロイドだ。
 「そうだ」ラガが言った。「それがあんたを待ってるぞ、オソ。合体目標をそこに置くだけでいいんだ。」
 オソは行動体を見つめ続けた。彼の頭の中にはひとつの図が浮かび、それが徐々に複雑化、微細化した図になっていった。無意識に彼はのり移るための実体移送フィールドの構築に取りかかっていた。
 すべてが終わりさえすれば、彼の頭にそんな思いがよぎった。
 ロート状のトンネルの中を見つめているような感じだった。抗し難い衝動を彼は意識した。
 それほど悪いものでもないぞ、と彼は自分に言い聞かせた。それほど悪いものでもない。全てが楽になる。
 彼は自分の体を立ち去った。慣れ親しんだ大切な体を、深い悲しみと一縷の希望と共に。

 狭い袋の中で締めつけられながら動かなくてはならない、そんな感じだった。今彼が8つの円形に配置された目から見る周囲は、もとの自分の目で見ていたときとそれほどは変わらなかったが、ただ見る角度は変わった。彼の新しい体は妙に軽く感じられた。操作の軽さには驚くべきものがあった。確かに彼の感情も彼の知識も変わってはいなかった。まるでコンテナの中味だけ別のものに詰め替えたようだった。
 もしかしたらそれはもう、クリュンヴァント=オソ=メグの危惧していたほどドラマチックなものではなかったのかもしれない。
 彼はまだ洞窟中央ホールの後方の壁の中の17の坑のひとつにとどまっていた。外にはグループの他のメンバーがいるのが見えた。みなは彼を待っているようだった。無意識に彼は床に目をやった。そこには17の死んでしまった元の体があった。彼の視線は一つの体の所で止まった。彼はそこに帰りたいと思った。
 そこへこの基地のロボットが姿を現して死体を運び出し始めた。オソが坑から体を引き摺り出そうとしたが、足が床にとどかないうちにロボットは姿を消してしまった。自動機械どもが死体を所定の場所に運んでいき、そこで崩壊するまで放っておくことはオソにも分かっていた。
 彼は立ち上がった。強い恐怖と言うよりはむしろ、本当に起きたことではないような、そんな気持ちだった。彼の心の中でどんな考えが渦巻いているかを察してか、彼に話しかけてくるものは一人もいなかった。
 オソは自分の当面の体をできるだけじっくり調べた。
 合体と熟慮のときが過ぎ、彼と仲間たちが新たな力を手にいれ、その前途に光が降りそそいだとき、この体は彼らの故郷にいなくてはならない。この体で彼はいつの日か五惑星系施設へ帰らねばならない。この体で、彼はあの“表面張力”と呼ばれる神秘の極限を乗り越え、より高い存在形態へと発展しなければならない。
 彼は皆のところへ数歩動いた。動きに危なげは全く無かった。
 「どうだい」仲間の一人が問いかけた。「そんなに悪いものかい、オソ。」
 「われわれ、漫画だね。」水利権責任者はブツブツと言った。
 行動体同士は互いに区別がつかなかったので、グループのメンバーはみな背中の甲殼に名前のマークを入れていた。このおかげで今誰に話しかけているのかが分かる。
 「君が落ち着いたら、上へ行って合体場所の方にかかろう。」グルドガルン=ロルポ=ゼルトが言った。
 「私は平気だ。すぐ出発できるさ。」オソは言った。
 私はどういうタイプの反逆者なのだ?オソは不思議に思った。自分にとって正しくないことでも、結局いつも皆にあわせて正しいということにしてしまう。
 この手の反逆者は、と彼は皮肉っぽく考えた。日和見主義者より始末が悪い、そう、臆病者だな。
 一行は動き始めた反重力リフトへと向かった。
 クリュンヴァント=オソ=メグのたった今した行為は、多少のバリエーションを含んで、この球状星団のあちらこちらの惑星で7万回繰り返される。
 このいまいましい隠れ家は巨大な落とし穴以外の何ものでもない。オソはあきらめに近い気持ちだった。
 そして悪いことに、彼らは自分で自分を落とし穴に引き摺り込んでしまったのだ。

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